私は子育てをしていて、「母親として」という概念が強い時期がありました。いつの間にか、その概念に縛られて、「親はこうあるべき」「子どもはこうあるべき」という気持ちが強くなり、そこから外れると強い怒りが出たり、焦りが出たりしていました。
皆さんは、そんなことありませんか?
親の概念をぶっ壊した不登校
子どもが不登校になった時、「子どもは学校に行くもの」という概念をことごとくぶっ壊されました。
「子どもはこうあるべき」という思いが強かった私には、不登校は許せないものでした。私は、母親としてこんなに頑張っているのに、なんで我が子は、子どもとしての役割を果たさないのだろう?子どもの役割は、学校に行って、勉学やスポーツに励むことでしょう?
そんな風に思っていました。
だから、無理やり学校に連れて行きました。嫌だと思っているのは、今だけだ。慣れれば学校に行ける。学校は嫌なこともあるが、楽しいこともいっぱいある。私もそうだった。しんどいけど頑張っていた。小さな楽しみを見つけて、毎日頑張る力が必要なのだと思っていました。
しかし、無理やり学校に連れて行かれた子どもは何をしていたかというと、別室でずっと同じ本を読んで、時間が過ぎるのをずっと待っていたのです。
こんなことでは、学校の楽しさがわからないではないか!!
ただ、ただ、時間が過ぎるのを待つ場所になるなんて・・・そこになんの意味があるのだろう?
時間の大切さについて考える
私が、子どもに望んでいることが、「学校に行くこと」であれば、それでも満足したのかもしれませんが、そうではありませんでした。
「学校に行く」ことが目的なのではなく、そこで体験できる学び、コミュニケーション、感じる感情、青春・・・そういうものに価値を感じていました。だから、ただ時間を過ごす場所なのであれば、学校でなくてもいいと思ったのです。
学校は、制限が多い場所です。当時は、タブレットなどの電子ものもありませんでした。できることといえば本を読むくらいなので、それであれば、家で色々な体験をすることでも、いいのかもしれないと思いました。
学校に行くのが当たり前と思っていたときは、「有意義な時間」について考えたことがありませんでした。学校に行けば、自然と吸収するものがあると思っていたからでしょうか。学校で過ごすのが、当たり前だと思っていたからでしょうか。
しかし、子どもを見ていると、「学校はただ、ただ、時間が過ぎるのを待つ場所」として、耐えている感じがしました。これでは、私の子どもにとっては良くないと感じました。学校は、耐える場所ではなく、楽しい場所であってほしい。
もちろん、先生たちも、たくさん配慮してくださっていて、学校に大きな問題があるようにも感じませんでした。ただ「合わない」のです
誰か、が悪いのか?
子どもが学校に行けなくなった時、誰しもが、原因を考えると思います。その時に、大抵の人が「誰が、何が、悪いのか?」と考えます。いじめた人が悪い、先生が悪い、学校が悪い、我が子が悪い、私の育て方が悪かった・・・
原因は、あると思います。(今、言語化できてなくても・・・)目の前の現象は、過去に、積み重ねた行動の結果で、起きています。でも、それが「悪い、悪かった」のではないと思うのです。もちろん、反省点があれば、悔い改めることは必要です。しかし、人間は、その時の最善を選んでいると言われています。自分や子どもたちが不幸になるように、行動している人なんていないのですから・・・だから、「誰かが悪い」と考えるのではなく、「どうしたら良い結果になるのか」と考えるほうが、現実は変化して行くと思います。
そして、きっと誰も、何も悪くないのだと思います。ただ、色々なことが、急速に変化しているこの世の中で、大きく変わることができていない、公的教育に疑問を持つ子どもがいても、おかしくないと思うのです。そのフラストレーションが溜まって、いじめや、無気力など、本人たちも、望まない方向に流れが行ってしまうという子もいてるのかもしれません。
学校に通う子どもたちは、まだまだ未熟であり、表現方法を間違えたり、受け取り方を間違えたりするもの・・・それは、大人になってもあると思うのです。
結局、「いい」「悪い」で物事を図るのではなく、「心地よい」「心地悪い」で物事を図る方が、一人一人の幸福度は上がって行きます。
正直、自分の幸福度が高いと、多少のことは許せますし、世の中も平和になると思うのです。
親だから、子どもだからという概念
話がそれましたが、私たちは、様々な概念に縛られて生きていると思うのです。
親だから、子どもだから、大人だから、妻だから、大黒柱だから・・・
もちろん、それで、自分を奮い立たせ、良いときもあるでしょう。でも、その概念に縛られ、笑顔がなくなり、怒りや焦りに捕らわれてばかりなら、その概念を手放す勇気を持ってもいいのではないか?と思うのです。
私が手放した概念の一つに、「この年齢では、これができるもの」というのがあります。小学生になると、テストがあったり、宿題があったり、登校班で行ったり、集団の中で過ごし、みんなと一緒にすることが多くなります。その中で、みんなが当たり前にしていることが、我が子ができなかった時に、私はめちゃくちゃ怒りが生まれました。「みんなできてるのに、なんであなたはできないの?」という問いかけを何度したかわかりません。
しかし、その問いかけが、我が子を追い詰めていたことを知り、それを完全に手放しました。どうしても比較したくなったなら、周りと比べるのではなく、過去の我が子と比べる。1年前よりできることが増えている、この子は大丈夫だと思えることが増えたのです。
結局、小学3年生の子どもはこうあるべき、など色々な私が勝手に思っていた「当たり前」を手放すと、どんどん、我が子の個人を見つめることができるようになり、親だからとか、子どもだからという概念が外れていきました。
今では、良き相談相手になってくれています。
皆さんも、一つ一つ、「あるべき」を手放してみてはいかがですか?